コロナ禍はどこまでが災害で、どこまでが時代の変化か。最近考えていることである。
新宮高校の文化祭「彩雲祭」が22日、1日のみで開催された。コロナ禍で規模縮小は3年連続。一度も「本来の形」で文化祭ができていない3年生には気の毒なような気がしてしまうが、一方でそれは部外者の勝手な理屈であるとも思う。生徒にとっては、今の状況が自身の高校生活の全て。過去の「本来の形」を今の子どもたちと照らし合わせることは筋が違うと、自分を戒めながら取材にあたった。
学校行事に限らず、人と距離をとること、度重なる外出自粛、マスクの着用、リモートの普及など、コロナ流行以後変化したものはたくさんある。しかし私たちはそのどれを「弊害」ととらえ、どれを「新時代」ととらえるべきか。例えば車が発明され普及した時代の人々は「これで人々は歩くことをやめ、身体機能が落ちる」と心配しただろうが、今の時代はそれが当たり前になっている。ひるがえってコロナが流行した時代では、子どもたちの思い出の場が減ることを案じている。
失われたのか、手放したのか。現場から時代を見つめ直したい。
【稜】