新宮市出身のカメラマン・鈴木理策さんの出前授業を取材させてもらった。彼は写真の講義を「見る」という行為がどういうものであるかというところから話した。それによると、人は目の前の知覚しているものの中から自分に必要なものを選択して「見ている」。しかしカメラは人が意識していなかったものも含め機械的に画角の中の全てを写し出すため、人の見ているものと写真とでは「ずれ」が生じるという。
たしかに、人は自分の興味関心や有用性に合わせて意識下に置くものを選別している。「たこ焼きが食べたいな」と思ったら急にたこ焼き屋さんが目に付き始める。そして「世の中こんなにたこ焼きであふれていたっけ」などと不思議に思う。しかしきっとそれは目には映っていたが見えていなかっただけなのだろう。
どこだかのお坊さんが「無とは、全てがある状態。無の境地があるとすれば、それは境目が『無』いということ」と話していた。見ることにも無の境地があるとすれば、それは目に映るもの全体が意識下で見えているということなのだろうか。取材する記者にとって必要なスキルは無の境地なのかもしれない。
【稜】