尾鷲市立尾鷲小学校の森康教頭と、6年生担当の上野成大教諭(31)、安藤優真教諭(27)が27日、矢浜のあいあいの丘に入所している世古直美さん(96)、山本ななさん(94)と、林明さん(89)から戦時中の体験を聞き取った。今後の平和学習に生かすことにしている。
世古さんは現在の尾鷲市須賀利町、山本さんは九鬼町出身で、林さんは愛知県守山市で暮らしていたという。自身が体験した空襲や日常生活の体験談を語ったほか、人伝てに聞いた話も伝えた。
山本さんは、防空頭巾を保管しており、実際にかぶって見せながら「機銃掃射は、今にも突き刺さってくるような音がした」などと振り返った。海軍熊野灘部隊が襲撃を受けた昭和20年7月28日は、三日三晩、防空壕にいたという。
世古さんは「食べ物はちょっとしかなかった」と話したほか、「卒業前の半年で答えを出すというけれど」と歌われた『青春時代』という曲を挙げ「つらい思い出ばかりだった」と語った。
林さんは「終戦まで、勉強する機会がこれっぽっちもなかった」と語り、本来の授業時間に、畑を作ったり、防空壕を掘ったりしていたという。空襲で自宅を焼かれたほか父を失ったという。空襲の様子について「いつ(警戒警報が)発令されて、いつ解除になるか分からない状態が続いた。薄暗くなってから空襲があり、焼夷弾の前に何か落として周りを明るくする。(焼夷弾を落とした後)、最後に爆弾を落として行った」と話したほか、自宅の被害については、家の近くに自宅用の防空壕を掘っており、外に出たら不発弾があった話や、2キロほど先にあった町内の防空壕を目指して逃げる時は、「隣近所の家の瓦などが散らばっていた。どこを走っていたか分からない状態だった」と詳細に述べた。
自宅が被害に遭った際の空襲で、別の場所で仕事をしていた父が亡くなった。翌日の昼ごろに連絡があったという。母親が何かを叫んでいたのを覚えている、と語った。
家を無くし、稼ぎ手であった父を亡くした林さんは、空襲された地区で、あたりに散らばった履物や着物を拾ってきて使っていたと話したほか、防空壕へ生き埋めになったことも伝えた。
山本さんは兄が戦死しており、小学校時代、出征する兄を尾鷲まで見送りに来なかったことが悔やまれると、涙をこらえながら語った。
世古さんは、昭和東南海地震時の津波にも言及。「学校で教えることで、生き延びること、命の大切さを知ってもらえれば」と、山本さんは「戦争に行くのは損」と伝え、林さんは「お互い歩み寄って、けんかをしないことが大切」などと話した。
上野教諭は「自分も戦争を知らない世代。自分ごととして考えることが大切。(子どもたちが)これから未来をつくっていくのにどうすればいいか、考えていきたい」と語った。安藤教諭は「その時どう思ったかや、怖さ、苦しさなどをしることができたのはよかった。そのような思いをした理由が何か、ということを(学習で)突き詰めていければ」と感想を語った。
