尾鷲市防災危機管理課は15日、矢浜のあいあいの丘に入所している世古直美さん(96)=須賀利町出身=と、山本ななさん(94)=九鬼町出身=に昭和東南海地震の体験談を聞き取った。2人は当時を振り返りながら体験を語ったほか、昔にほかの人から聞いた話を若い職員に伝えた。
出前事業など防災講話で、当事者の声を伝えることで市民の防災意識向上につなげていこうと初めて取り組んだ。同課の久保将太さんら2人が約40分、話を聞いた。
昭和東南海地震は1944(昭和19)年12月7日午後1時36分に発生。震源は尾鷲市沖約20キロの熊野灘で、地震の規模はマグニチュード7.9と推定されている。
世古さんは当時、女学校に在籍していて、勤労動員で港町にあった缶詰工場で仕事をしていた。揺れで近くにあった水槽が壊れたが、立っていられないほどではなかったこと、中村山に一目散に逃げたことを振り返った。逃げている時、津波で堤防が見えなくなっていたという。印象に残っていることとして、普段はお嬢様のような雰囲気の友人がとても速く走って避難していたことを挙げた。自身は現在の尾鷲高校のグラウンドの場所にあった寄宿舎暮らしだったが、須賀利の実家は海岸に近い場所にあり、「家ごと流された」と語った。
山本さんは寄宿舎で授業中だった。揺れが収まり、授業が再開されたところ、津波が来ているのが分かったという。母親は、九鬼から渡利への巡航船に乗っている途中で九鬼の岬付近でがけ崩れが見え、船に乗っていた人が騒いでいたほか、がれきがたくさん流れていて沖で待機し、夕方になってはしけを用意してもらい尾鷲に上陸したという。「その夜は、母が寄宿舎に泊まった。離れ離れに暮らしていて、ものごころついたころ以来、同じふとんで寝た」などと振り返った。夜は大きな余震が何度かあったという。
戦時中であり、被害を隠蔽するために、かん口令が出されたことが知られている。山本さんは「役場から原稿用紙に書いた回覧板が家に回ってきていた」と話した。伝聞情報として、「八丈島の方で、尾鷲の印のついた材木が流れて来て、『尾鷲で何かあったんやろか』という話になった」というエピソードも語った。
山本さんは「子や孫に伝えていかないと、『災害は忘れたころにやってくる』ということになる。伝える場をなるべく作り、子どもらに教えていくことが大切と思う」と話していた。
担当した久保さんは「話をしてくれる人が元気なうちに話を聞いて、防災講話に生かしたいと考えた。人によって、また、居た場所によって体験が違うので、話してくれる方がいれば、その人の体調に配慮しながら話を聞いていきたい。防災講話では過去の大きな災害について紹介している。今回聞いた話を踏まえ、もう少し深く話せるようにしたい」と語った。
