新聞は、誰にとっても理解できることを書く。「客観的」と言ったりする。老若男女、どこの誰が見ても変わらない事実。その記述を試みる。だが反面、大概の人にとって大切なこと、あるいは魅力的な物事というのは、その人にしかその価値がわからない。小さな子どもが大切に保管しているどんぐりに、誰が値段を付けられるだろうか。大人はこれを「主観的」と言ったりする。
新聞にとって客観的で中庸をいくのは大切なことだ。しかし記者にとって取材現場で得た経験というのは、子どものどんぐりのように、キラキラ輝いたものである方がよい。自分はそこで何を感じたのか、何に心を開き、鼓動が高鳴り、輝きを見たのか。自分だけの金ピカが、どんな人にだってあるはずだ。
そういう感性のないままに書かれた記事には命が宿らない。どこか他人事で遠くから俯瞰(ふかん)しているような文章。もちろん一定の冷静さは大切だが、伝えることの本質に立ち返る時、試されるのは自分の中に、自分にしか分からない真実をいかに立ち上げるかということだ。
どんぐり拾いを続けよう。そういう人でありたい。
【稜】
