連休中、東京から友人が3人来た。札幌の同郷で、起業した者やシステムエンジニアなど、都会の荒波にもまれながらそれぞれ頑張っているようだ。来る前は「樋口、東京に住めよ」「なんで和歌山なんだ」「田舎で何もないだろう」と小馬鹿にするようなきらいすらあったが、キャンプを目的に熊野を訪れた。
紀伊勝浦駅に降りその風土に触れた時から、すでに印象は好転していたようだ。2泊3日も電波の届かない自然のふところで過ごせば、最終日には「ずっとここに住んでおいてほしい」「ここを和歌山と呼ばない方が良いのでは」「浄化された」と一変しており、何かを感じてくれたようでこちらもうれしかった。正直、事前の話し合いではこの土地の魅力をうまく伝えられず「とりあえず来て」と強引に誘っていたほどだったのである。
連休明けに取材で寄った新宮市立図書館で、中上健次のビデオメッセージが目に入ってきた。健次は、熊野とは何かをこの土地に住んでいる人が考え続けていること、それこそが熊野ではないかと語る。
確信に変わりつつあることがある。熊野は、言葉で計れない。
【稜】