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荒神堂跡、茶屋跡 国史跡へ 「道と同等の価値」認められた

西国三十三所名所図会にも記載
 
 熊野古道八鬼山越えルートの、八鬼山荒神堂跡および茶屋跡が国指定史跡「熊野参詣道伊勢路」に追加指定されることになった。19日、文化審議会が文部科学大臣に答申した。このほか、玉城町の石仏庵(いしぶつあん)、多気町の女鬼峠道も追加され、伊勢路の史跡指定箇所は24箇所となる。県は、世界遺産への追加登録を目指す考え。
 
 熊野参詣道伊勢路は、熊野三山に向かう道のうち、伊勢神宮と熊野をつなぐルート。10世紀頃には利用されていたと考えられている。江戸時代に入ると一般民衆による旅が盛んになり、伊勢神宮や西国三十三所巡礼が流行し、伊勢路は、参宮のあとに西国巡礼に向かう巡礼者の増加で、信仰の道としての役割も大きくなった。
 
 今回、追加指定を受けることになった八鬼山荒神堂跡および茶屋跡は、江戸時代に「西国一の難所」などといわれた八鬼山道を、矢浜側から登った道中に位置する。尾鷲市教育委員会によると、嘉永6(1853)年刊行の「西国三十三所名所図会」に堂宇が描かれていて、現在とほぼ同じ場所にあったことがうかがえる。
 
 荒神堂は八鬼山日輪寺とも言われた。大宝2(702)年、修験者阿闍梨(あじゃり)返昌院仙玉法印の創基といわれ、天正年間(1573—1592)のはじめごろに権大僧都各真法印が中興したと伝えられている。
 
 堂内には名所図会でも紹介されている本尊の石造三宝荒神立造(天正4年銘)のほか、阿弥陀仏、観世音、薬師如来といった熊野三山の本地仏が納められており、巡礼者らは荒神堂を西国巡礼の前札所として参拝していたとされる。
 
 茶屋跡は、荒神堂跡に隣接した空き地に位置しており、現在にわずかに石積みの基壇が残されているだけ。名所図会では荒神茶屋と紹介されていて、荒神堂を管理した修験者とその家族によって営まれ、彼らの居宅も兼ねていたという。通常は休息所として餅や酒、食事などを提供する場所だったが、まれに峠越えの途中で遅い時間になった旅人が宿泊することもあったという。また、茶屋跡から道を挟んだ南東側に現存する石製の枡は名所図会にもみられ、山から引いてきた水をため、旅人たちの飲み水や修験者一家の生活用水として使っていたと考えられる。市教委は「荒神堂跡および茶屋跡は、伊勢路を歩いた巡礼者などと密接な関わりがあったことから、道と同等の価値を有すると認められた」としている。
 

次は世界遺産に追加 加藤市長がコメント

 答申を受け、加藤千速市長は「長く尾鷲の人々から信仰され、令和の時代においても人々の善意でお堂が建て替えられるなど地域の宝として大切にされている八鬼山荒神堂が、歴代のお堂が所在した土地や隣接する茶屋跡など参詣道としての熊野古道と不可分なものとしての価値が認められ、国指定史跡である『熊野参詣道伊勢路』に追加指定される運びとなったことはとても喜ばしい。今後は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」への追加登録に向けて、三重県とともに取り組みを進めたい」との談話を発表した。

 また、八鬼山荒神堂保存会の代表で、令和元年の再建に尽力した野田隆代さんは「大変うれしく光栄に思います。これによって私たちが目指している世界遺産追加登録に大きく前進しました。熊野古道が世界遺産になって21年。その当時の荒神堂は崩れかけたボロボロの状態でした。令和元年の再建では礎石が2種類見つかり、江戸時代のものと明治時代のものだと推測され、取り壊した古い荒神堂のはりには明治26年に建てられたという墨書きがあり、歴史的な裏付けも取れました。最初からの登録ではなく、美しくなってから追加という形で認められたことに意味があったように思われます。これまでご尽力いただいた県および市の担当者にはこころよりお礼申し上げます。また、毎年、八鬼山三宝大荒神護摩供で法要いただく、金峯山修験本宗管長・総本山金峯山寺管領の五條良知猊下をはじめ山伏の皆さま、お手伝いいただく皆さま、参加いただく皆さまにいい報告ができます」とコメントした。

      尾鷲市

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