長く歩き、祈り、撮り続ける
那智山青岸渡寺の集合場所へは、友人の車で、その子どもたちも含めた一行で向かった。フロントガラス越しに、那智山の木々を照らすヘッドライトの光を見つめながら、まだ日が昇る前の深い時間であることを静かに実感する。
令和8年3月、熊野修験「熊野大峰奥駈修行」の第1回の春峰入り。ここから熊野本宮大社へと至る、大雲取越・小雲取越の中辺路ルート。距離にして約30キロ、高低差は延べ2000メートルの道のりだ。個人的には3回目の参加であるものの、奥駈行の時期が近づくと、わくわくする気持ちの中に、心配や不安が拭いきれない。アミノ酸のサプリメントや、こむら返りに効く漢方薬の芍薬甘草湯が家に残っていたかと気になり出すのも毎度のことで、当日の気温を気にして、山の服装や持参する水の量に迷うのも不安の表れだと感じる。
実際の道中は、やはり自分の体力では厳しい。特に「越前峠」まで繰り返す登り坂では、不思議なもので、周りを歩く皆はまだ余裕があるように見え、「自分だけがもう限界に近いのではないか」という焦りに似た感覚にとらわれることがある。ここはツアーではなく、あくまで「行(ぎょう)」に参加させていただいている身。「疲れたからやめます」というわけにはいかず、歩き切る準備を怠れば、共に歩く皆さんに負担をかけてしまう。
そんなふうに自分の限界と向き合うことにも少しは慣れたかなと感じつつ、ただ足元だけを見つめて必死に歩いていた時のこと。ふと、後ろを歩いていた友人の女性から「大丈夫?」と声を掛けられ、はっと我(われ)に返った。山歩きが好きで、私よりも経験が豊かで足腰の強い彼女は、私の歩く後ろ姿から疲労の色や足運びの違和感を見て取ってくれたのだろう。その温かな気遣いに触れ、自分の余裕のなさを自覚すると同時に、自分がいかに周りが見えていなかったかに気がついた。
■厳しい局面 念仏で無心に
何よりまだ膨大な時間を歩き続けなければならないという、気持ちが弱りそうになる時や、登り坂の厳しい局面で響くのが、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」「懺悔懺悔(さんげさんげ)」という掛け念仏。声を合わせることで、「しんどいのは自分だけじゃない」という全体的な一体感が生まれ、不思議と先ほどとは違う良い無心の状態になっていく。
初めて参加した頃の私は、そうやって無事に歩き切ること、自分自身の体力という「内側」と向き合うことだけで精いっぱいだった。しかし回数を重ね、友人からの声かけにはっとし、熊野の山々に慣れてきたことで、視線は自然と「外側」へと向くようになった。顔を上げると、3月初旬ならではの木々の芽吹きや、森に差し込む光の柔らかさがこれまでよりも多く、そして鮮やかに目に留まる。
■80人超が満行 サポートに感謝
今回、80人を超える参加者の多くが無事に満行を果たした。一緒に車で向かい、密かに心配していた友人の小学校低学年の娘たちも、大人でも息が上がる道を軽やかな足取りで進み、歩き終えた後も「足いたい」と笑う無邪気で気軽な様子はなんとも微笑ましかった。
また、サポートの方々には今回も本当にお世話になった。熊野修験をサポートしてくださる方々は、山を歩くのと同じくらい大変な役割を担ってくださっている。裏方での献身的な務めを通して、自らもこの「行」に参加し、歩く私たち一行に祈りを託してくれているかのようだ。そして、歩くことのできる方々、少なくとも木大導師をはじめとする行者の皆さまは、その想いをしっかりと受け止め、彼らの祈りごと背負って山々の大自然に宿るとされる神仏へ届けているのだと感じている。
ひたすらに森を歩いていると、登山アプリ「YAMAP」の春山慶彦代表の言葉が頭をよぎる。「一つは直立二足歩行で長距離歩けること。もう一つは祈り。長く歩き、祈ることができるのは、人類だけだと思うんです。特に、祈りは人間にとって大切な営みだと感じています」。
人間だけが持つ、長く歩き、祈るという営み。自分の足で歩き、他者を思いやり、世界の平和と安穏を祈る。そのような、世界を想う人が増えていく今、世の中が悪くなるはずがない。木々の間を抜けながら、自然にそう思えた。私たちがこうして歩かせていただけるのは、熊野修験を取り巻くたくさんの関係者の皆さまの想いとサポートのおかげだ。その想いを受け取り写真を撮る者として、この令和の時代に修験道に生きるということはどういうことかを、修験者さんと近い価値観を持って見つめるため、共に歩き、撮り続けたいと思う。
