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紀南抄「滝に行く」

 じゃぼん。水の中。瞬間、ゾクリと全身が皮膚の下から裏返るような冷たさに、感覚が拓(ひら)き、時が遅れる。目、耳、鼻、舌、肌。五感の全てが浮遊に包まれ、コポコポと不自由に澄んでいく。重みで沈んだ体は、水流を受けながら、私の意志とは無関係に浮かび上がる。水面から顔を出した。音がよみがえり、刹那、現在地があやふやになる。しかし奥でドオドオと流れ続ける滝と、手前でチャポチャポと遊ぶ水が、帰還を教える。次いでぼやぼやとしていた視界が戻る。目いっぱいの白い光が、風景になっていく。岩は陽光を浴びて濡れた表面がうれしそうに輝いている。青々と広がる苔のじゅうたんに、滝の息吹を受けてたなびく草木、たゆたう水。「豊かさとは」「自然とは」「思想とは」「なぜ」「だれ」「なに」「熊野とは」—。全ての問いが、思考が、もはや遅く、意味をなさない。その意味すら水泡に帰していく。ただ、ただ在ると知る。無であり有である。境がなく、全てがある。生きていて、死んでいく。それすら営みだとわかる。わずか5秒間の出来事。夏、滝に行く。熊野。

【稜】

      7月 8日の記事

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