米国とイスラエルによるイラン攻撃、泥沼化するロシア・ウクライナ戦争など、世界情勢の混迷が深まる中、日本は15日に戦後81回目の終戦記念日を迎える。新宮市内では、新宮高校野球部が戦死した元球児をしのぶ交流試合を行ったり、歴史に詳しい元教員が戦跡ツアーを引率したりと、“戦後世代”が戦争を風化させない取り組みを進めている。
■剛腕と名将忘れるな
「先輩に恥ずかしくない野球を」。11日、新宮高校グラウンド。新宮高と、招待された向陽高のナインは円陣で声高らかに宣言した。向陽高の前身は旧制海草中。1939(昭和14)年、40(昭和15)年に夏の甲子園2連覇を達成した古豪だ。
39年の優勝は、「伝説の大投手」と称された嶋清一氏によってもたらされた。嶋は強じんな左腕から放たれる剛速球と鋭く落ちるドロップ(カーブ)を武器に準決勝、決勝で2試合連続のノーヒット・ノーランを記録。明治大学に進学し、将来が嘱望されたが、学徒出陣で海軍に召集され、45(昭和20)年3月29日、ベトナムの海上で戦死した。享年24。入営前に学生結婚したばかりだった。
嶋の元チームメイトで、同じく明治大に進んだ古角俊郎氏(2013年没)は、戦後、新宮高で監督を務め、海草・明大野球を踏襲した手腕で同校を春2回、夏4回甲子園に導いた。両氏の功績をたたえるため、戦後70年の2015(平成27)年に交流試合が始まった。
■誇り胸に好勝負
試合前、嶋をはじめ戦死した御霊(みたま)に両校の全選手が黙とうを捧(ささ)げた。開会式に登壇した井上信也(のぶや)・新宮高OB会長は「あっという間に時間が過ぎている。こうして応援し合える平和な環境を大事にしたい」と語った。
結果は5ー3で新宮高の勝利。中止を挟んでの10戦目で、勝敗はタイとなった。だが向陽高は劣勢の九回裏、2死から満塁とし、一打逆転サヨナラの好機を作る意地を見せた。「このまま終わっては申し訳ない。何とか粘りたかった。勝てなくて残念だが、偉大な歴史のある学校でプレーしている誇りを持つ」。向陽高の秦野了輔主将(2年)は晴れやかな表情で言った。
今月中旬に開幕する県新人戦で、両校は初戦の2回戦をともに勝利すると激突する。2年前の夏の大会は、新宮高と新翔高の合同チームが勝った。新宮高の松本梨生主将(2年)は「次も勝ちたい」と勝負にどん欲な姿勢を示した後、声のトーンを変えた。「次世代に平和をつないでいきたい。戦争を起こさないために、自分たちがやるべきことをやる」。秦野主将とも意見は一致した。向陽高では入部後、必ず嶋投手の話を教わるという。実力伯仲の両校は、夢半ばで旅立たされた剛腕の思いを胸に、平和に野球ができる状況を終わらせないよう、白球に願いを込めている。
“戦後派”だからできること
熊野学研究委員会委員の中瀬古友夫さん(75)は教員を定年退職後、新宮と先の大戦の関係について生徒に教えている。ボランティアだという。
市内では戦争末期に空襲が激化し、総務省によると、45年7月24日、米軍の爆撃機B29が新宮高の前身である新宮高等女学校周辺に34個の爆弾を投下。死者50人、負傷者200人に達した。
学校側から依頼があると、新宮高女跡などを巡るツアーを行い、爆弾の破片が穴をあけた痕跡等、生々しい傷跡を見せる。「経験の蓄積の上で教えるようにしている。歴史は点ではなく、つながっている。たとえ関係のないように思える出来事でも、過去からのつながりである」。その信念を教えることで紡ぐために、独学で文献を読み漁った。
自身を突き動かすのは、両親、祖父母世代の、戦争を避けられなかった悔しさだ。父・重郎さんは中国戦線に出征。当時、交際中だった母・きぬさんは万歳三唱で見送る際、下を向いたままだったという。重郎さんは無事だったものの、祖母は「戦争関連死」(中瀬古さん)した。空襲から逃れるため、熊野川に飛び込んだ際、長時間水につかったため体調を崩し、やがて死亡したという。「直接の原因ではないとされるので、戦死者には含まれない。祖母のような犠牲者は多数いるはずだ」と繰り返す。
■平和と文化は地続き
中瀬古さんは江戸時代が好きだ。260年続いた天下泰平の世で、さまざまな文化が花開いた。「浮世絵に旅行、出版。平和だったからこそ、これらは発達した。戦後80年も同じことがいえる。一度も外国に軍隊を送り込まず、内乱も起きなかった」。不安を浮かべた目で続ける。「日本も戦争が、他人事ではなくなってくる」。自宅の書棚にある無数の書籍、資料の内容を咀嚼(そしゃく)し、体調の許す限りさらに若い世代に届けたい。今年も8月15日が来る。
