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地域に生き続けた 「ドクトル大石」 大逆事件犠牲者・大石誠之助

 1910年(明治43年)の大逆事件によって、無実の罪で処刑された新宮市出身の医師・大石誠之助。国家にとっては危険な思想家とされていた一方で、地域では「ドクトル大石」として広く慕われていた人柄を示す興味深い資料が見つかった。

 誠之助は新宮市仲之町で生まれ、アメリカの大学で医療を学んだあと、帰国して地元・新宮で医院を開業した。「ひげのドクトル(毒取る)さん」と呼ばれ、貧しい人々の診療にも尽力し、薬や医療知識を惜しみなく分かち合った。さらにコックとしての経験を生かし、「太平洋食堂」を開店。自ら料理人として西洋料理を提供し、食生活の改善を通じた公衆衛生の啓蒙(けいもう)にも取り組んだ。
 
 近代の地域資料を研究する中瀬古友夫さん(熊野学研究会委員)が、このほど入手した1920年(大正9年)発行の観光パンフレット「紀州熊野遊覧案内」。紀南各地の名所案内だけでなく、後半には旅館や商店などの広告が掲載されている。この中に、2019年(令和元年)まで那智勝浦町天満で営業していた「植野薬局」の広告があり、薬種商ならびに売薬の紹介文として「ドクトル大石先生伝授」の記載が確認できる。
 
 当時は誠之助の処刑からわずか10年しか経っておらず、思想・言論に対する国家の検閲と弾圧が極めて厳しい時代。社会主義者や無政府主義者の名を肯定的に公の場で語ることは、事実上タブーとされていた。当時の社会情勢の中で、商業広告という不特定多数の目に触れる媒体に、処刑された人物の名前を敬意を込めた呼称で明示することは異例という。
 
 伝授という表現は、「先生から秘術・コツなどを教えてもらって受けること」を意味し、誠之助の医学的知識や技術を価値あるものとして継承しているという意思表示ととれる。中瀬古さんは「社会的・刑罰的なリスクを負ってでもこのような趣旨の文言を用いたことは、地域に生きる医師として、誠之助がいかに人々に慕われ、生活の中に深く根ざしていたのかを表す貴重な資料」と見解を示す。
 
 また植野薬局には、別の関連資料も現存している。店主であった植野元太郎氏が書いたと思われるメモで、「ペキンバーター」(ベーキングパウダー)の製法について、「大石ドクトル先生伝方」と記されている。表記は明治29年10月で、誠之助が現役の医師として活動していた時期。地域での高い評価と信頼を具体的に裏付ける証拠であるという。
 
 非戦や人権尊重など、時代の先駆者としての思想が注目されることの多い誠之助だが、この小さな冊子やメモは、公的な記録や史料からは浮かび上がりにくい、1人の医師として、また、食育などの啓蒙活動を通して、地域住民から尊敬されていたもうひとつの姿を静かに伝えている。
 
 広告の片隅や個人の覚え書きに残された住民の意思は、現代にも確かに受け継がれており、長年にわたる市民の顕彰活動が実を結び、2001年に市議会で誠之助をはじめとする「新宮グループ」の6人の名誉回復が決議され、2018年には誠之助が名誉市民に認定された。
 
 きょう1月24日は、没後115年目の命日にあたる。誠之助は今も、市内南谷の共同墓地で静かに眠っている。
 

      新宮市

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