現代社会はそろそろ「自分」「個人」について改めて考えなければいけないところに来ているので、問い直したいと思う。
しばしば「私」と呼んでいるものは実際、どこからが自分でどこからがそれ以外なのだろう。例えば、今朝食べたお米はいつから私になったのか。人間の身体の体積は結局ほとんどが食べ物から出来ている。仮に自分の体を指して「私」と呼んでいるとすると、その元となる食べ物はいつ私の一部になったのか。口にした瞬間か、胃で消化している時か、栄養がエネルギーとして取り込まれた時か、では排泄物はいつから私でなくなるのか。
考えた末、米はもともと私であり、私はもともと米であったという結論に至った。つまり境界線を決めることがそもそも不自然であり、「私」は環境との関係の中で語られるべき全体の中の一部である。
現代と都市化がもたらした物事を区別する見方は、「関係」を無視する傾向にある。現代人の幸せ、あるいは不幸せを構成するおおよその要素は「人間関係」であるが、それは「個」というものを無自覚に、不必要に立てすぎてしまった結果なのではないか。米は、今日も私を食べる。
【稜】