尾鷲市教育委員会はこのほど、市立中央公民館で尾鷲組大庄屋文書(一紙文書)の市文化財指定を記念した講演会を行った。一紙文書の調査を主導した三重大人文学部の塚本明教授が調査の意義や大庄屋文書の苦難の歴史、一紙文書の価値などを約2時間にわたり熱弁し、古文書や郷土史などに関心のある市内外の約30人が興味深く聞き入った。
一紙文書は、冊子になった県指定文化財(昭和35年指定)の記録と本来一体のもの。1枚物の紙が約1万7000点あり、2002年から6年間、延べ約1300人で調査し目録化。今年5月に市文化財(書跡)に指定された。
講演で塚本教授は、他地域の多くが明治維新とともに江戸時代の古文書を廃棄してしまった中で、尾鷲組大庄屋文書は尾鷲町役場に引き継がれたことを前提に、今に伝わるのは「この人のおかげ」といずれも故人3人の功労者を挙げた。
1人目は県会議員だった北村米助氏。明治35(1902)年7月、尾鷲町議会で大庄屋文書を不用として売却決議したが、町長や議員に働きかけ、決議を撤回させた。北村氏は奇人ぶりが魅力の人気者だったらしく、選挙では常にトップ当選だったという裏話もした。
戦後、全国の漁村古文書を整理し、保存・出版するため、水産庁から委託された常民文化研究所が全国各地の古文書を収集。尾鷲組大庄屋文書も全て船で搬送され、筆写(複写)後、速やかに返却されるはずだったが、全国から集めた膨大な古文書の整理が進まず戻らなくなった。
その後、古文書の返却を要請し、尾鷲に戻したのが2人目の功労者の伊藤良氏で、市制後の昭和31年に文書を合冊、整理し、市文化財に指定した翌日に県文化財指定を申請、2年後に県指定を実現した。同研究所で調査に従事し、返却申請を受けたのは速水亨氏(速水林業)のいとこの速水融(あきら)氏だった。
3人目の功労者は、尾鷲市史編さんにあたり尾鷲組大庄屋文書を調査した三重大教授の中田四朗氏。市の依頼から4年という驚異的なスピードで昭和46年、上下2巻の市史刊行を成し遂げた。市史編さん室長は伊藤氏だった。
市史にも反映された一紙文書の価値について塚本教授は「冊子記録は基本的に元の一紙文書を書き写したもの。古文書学では情報量はまとめた冊子記録が多いが、史料的価値は一紙文書が高い。実際に使われたもので間違いのない確かな事実だから」と分析した。
一紙文書は県指定文化財を目指して動き出している。塚本教授はまだ常民文化研究所と中央水産研究所に残る文書や所在の分からないものも少なからずあり、どれだけ残っているかの調査と返却交渉などが必要とした。
