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熊野学パネル展ギャラリートーク 中瀬古さんが変遷を解説

海、川、陸の交通発達
 
 熊野学研究委員会(中瀬古友夫委員長)はこのほど、新宮市の丹鶴ホールで、12日まで実施されていたパネル展「画像資料に見る近代熊野地方の交通発達史~海の道、川の道、陸の道~」のギャラリートークを行い、中瀬古さんが解説した。

 江戸時代、紀伊半島沿岸は黒潮と季節風を利用した海上交通の要所となり、木材や木炭を積み出す河口の港が発達した。しかし明治以降、政府による鉄道重視政策の下で、当地方は交通不便な地として認識されていく。そんな中でも地域の先人たちはさまざまな交通機関の発展に努め、工夫を重ねてきた。

 「海の道」の発達で、江戸時代には不便な土地ではなかったという当地方。河口付近に形成された川湊から、次第に西洋式の近代的な港へと変化。明治期には熊野と大阪・名古屋を結ぶ紀州航路の開設で、三輪崎港が新宮の玄関口に。大正2年の新宮鉄道の開通で紀州航路は桟橋のある勝浦止まりとなり、港町の繁栄は三輪崎から勝浦へと移っていった。

 昭和元年、大阪~勝浦間に「那智丸」「牟婁丸」が就航。最新鋭のディーゼル船が快適な船旅を提供した。しかし鉄道の延伸で乗客が減少し、昭和13年までに両船は廃止となった。

 「川の道」については、険しい山地に囲まれた熊野川流域は古くから、「三反帆」と呼ばれる地域独特の川船に頼って生活してきた。夏は海からの風を受けて一気に本宮までさかのぼることもあったと説明した。

 大正8年、飛行艇のプロペラを利用したプロペラ船が登場。瀞峡観光や地域の生活の貴重な足となった。熊野川での成功は全国に伝わり、富士川、天竜川、四万十川などでも活躍したが、道路の開通によって姿を消した。誕生の地である熊野川では最初から最後まで運行していたが、昭和40年にウオータージェット船に後を譲った。

 「陸の道」の一つである鉄道の歴史は、大正2年の新宮鉄道開通から始まる。中瀬古さんは「木材輸送だけでなく観光や通学、行商、行楽など、地域の生活を大きく変えた」と解説。昭和34年に住民が待望していた紀勢本線が全通し、東京行き夜行列車、特急くろしお、天王寺行き寝台車など、多くの列車が運行した。

 一方、昭和初期の旅行ブームで当地方でも多くのバス会社が誕生。戦後の高度成長とともに新婚・団体客が押し寄せ、さなざまなカラーの観光バスが走った。また昭和10年の熊野大橋開通は、渡し船の廃止や川原町の衰退など、地域の産業文化に大きな影響を与えた。

      12月12日の記事

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