『檸檬』という小説がある。鬱屈した青年がまちをさまよってレモンを買い、本屋の棚に置き去りにする。己の心中でそのレモンを爆弾に見立て、本屋が木っ端みじんに爆発することを想像しながら一人愉快になる。心の闇を暗くも爽やかに己の中で昇華させる、珠玉の名作である。
檸檬が梶井基次郎によって生み出されたのはおよそ一世紀前。梶井は肺病のため早世し、この小説を含んだ創作集『檸檬』が生前の唯一の出版本となった。梶井の苦悩は計り知れないが、その苦悩が生み出した傑作が、友人らを動かして後世に残り、時を超えて今もなお人の心をつかむことに、人が積み重ねてきた文化に貴さを感じる。
確かに社会に不条理はあり、苦悩する人はいる。ただ、既存の社会はこれまでの積み重ねで、しっかりと話し合い、大勢の同意の上で変えていくべきものだ。人をいたずらに傷つけることはどんな言葉で飾っても暴力でしかなく、新たな不条理や悲しみを生む。民主主義をないがしろにする暴挙が続く現状が嘆かわしい。
(R)