佐藤春夫生誕130年記念の行事「わんぱく時代の地から」の中で、春夫研究者の河野龍也東大准教授による講演があり、代表作「わんぱく時代」について「危険を巧みに回避して生き永らえた罪悪感から生まれた哀(かな)しみの歌である」と説明していたところが面白かった。
河野准教授によると、差別や格差の問題を直視することを避けて文学者を目指した主人公の「須藤」は、弱者救済に目覚め強大な「父」(国家)の犠牲として大逆事件で命を落とした登場人物「崎山」を、別の人生を歩んだ「もう一人の自分」としてとらえたという。
かの三島由紀夫も、大戦で生き残ってしまった葛藤にあえいだと聞く。それが「認識と行動」の対立につながっていく。「生き残ってしまった葛藤」というのが、激動の時代を歩んできた個々人の中にあるようだ。
残酷なのは、自分に選択肢があったことなのだろう。文学者になるか、弱者救済を志すか。認識の世界で言語を操るか、実際の世界で行動を起こすか。
取材し文を書く新聞記者の自分は今、認識と行動どちらの世界にいるのだろう。あるいは、それらをどうつなげられるだろうか。
【稜】